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天目山の戦の後、真田氏は徳川氏に仕えましたが、北条氏との和睦の件で家康と対立、昌幸の長子信幸は徳川氏側に残りましたが、昌幸と幸村は豊臣秀吉に仕えることになったのです。
1600年(慶長5年)、天下分け目の関ケ原の合戦で幸村は父と共に西軍に加わり、持ち前の軍才を生かして秀忠の大軍を相手に大勝を収めました。
しかし西軍は敗退。幸村は死罪に処せられるところでしたが、東軍についていた兄信幸の嘆願により、これを免れました。
「真田昌幸とその子幸村に、所領没収並びに高野山蟄居を命じる」
これに従って同年10月9日、幸村父子は真田家の菩提寺である高野山蓮華定院に身を寄せました。昌幸65年、幸村33才の時のことでした。
こうして幸村父子の隠棲生活が始まりましたが、高野山があまりにも寒かったため、その年の冬に庵を九度山に移しました。その跡地に建つのが善名称院(ぜんみょうしょういん)、真田庵です。
九度山での生活は、信幸からの仕送りもあって、それなりにゆとりのあるものだったようです。その一方で兵術や天文を学んだり、一子大助(幸綱)と共に紀ノ川で水練を試みるなど、将来に備えての訓練も怠りませんでした。また、昌幸が刀の柄に巻いていた平織り紐を真田紐として行商させ、生活の足しにもしていました。
 
時は流れて1614年(慶長19年)春、豊臣秀頼の使者が幸村の庵を訪れました。
「この度、我等は徳川氏を滅ぼさんがために兵を挙げることになった。ついては、幸村殿にも力を貸して頂きたい。」
「承知いたしました。秀吉公の恩義に報いるためにも、喜んで協力いたそう。」
3月18日、幸村は大助と共に14年間住み慣れた九度山を後にしました。父昌幸は既に亡くなっていました。
大坂冬の陣では、南側の最も重要な地点に出丸を築いて空堀をめぐらせ、戦術を尽くして関東軍を悩ませました。その後、一旦は和睦が成立したものの、翌年再び夏の陣が起こりました。大坂城は和睦中に外堀を埋められて守りもままならず、兵士たちの気力も限界に達していました。
「ううむ。もはやこれまで。」
幸村は決死の覚悟で徳川の軍勢に討ちかかりました。その勢いはあわや本陣に迫るかという凄まじさで、さすがの家康も浮き足立ちました。

真田庵の境内に建つ与謝蕪村の句碑
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しかし茶臼山附近での激戦の末、幸村は壮烈な最期を遂げました。享年48才でした。
「幸村の戦いぶりは敵ながらあっぱれであった。以後、江戸城内において幸村を誉め讃えることを許そう。」
家康もまた、同じ戦国武将として幸村に感服していたのです。
軍才に秀でながらも、時代の波に押され大坂夏の陣に散った悲劇の武将真田幸村は、さまざまな伝説や物語で後の世に語り伝えられ、私たちの心の中に生き続けています。
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